ジョン・ウィンズレイドを偲んで(マイク・ウィリアムズの追悼)

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2025年5月4日にジョン・ウィンズレイドが亡くなり、5月10日に葬儀が行われました。そこで、友人であり、「いじめ・暴力に向き合う学校づくり:対立を修復し、学びに変えるナラティヴ・アプローチ」の共著者であるマイク・ウィリアムズが弔辞を述べました。その追悼文を綾城初穂さんが訳し、マイクにホームページに掲載する許可ももらってくれましたので、ここに掲載します。

ジョン・ウィンズレイドは、ナラティヴ・セラピー、悲嘆、調停、多文化カウンセリングなど、多くの領域で多くの遺産を残してくれました。私たちは、その遺産を大事にして行きたいところです。

Tena koutou, tena koutou, tena tatau katoa.
皆さん、こんにちは。マイク・ウィリアムズと申します。ジョンとは2002年にワイカト大学で出会って以来の親しい友人です。

はじめに、ここにいる皆さん、そしてライブ配信をご覧になっている皆さんが感じている悲しみと喪失感に、哀悼の意を表したいと思います。
ジョンの追悼にあたって、どこから始めたらいいか。それは簡単にわかります。どこから始めてもいいんです!すべての道は、ニュージーランドから世界の果てまで、数え切れないほどの人々の生に触れた、非凡な男のストーリーへとつながっていますから。ジョン・ウィンスレイド、あるいは、カリフォルニア州立大学サンバーナーディーノ校の教職員や学生をはじめとする方々からは「ウィンスレイド博士」として知られていた彼の思い出を、ここにいる皆さんはそれぞれにお持ちのことと思います。

私は、ワイカト大学でカウンセリングの修士号のために勉強していた時、ジョンと出会いました。紛争解決やグループファシリテーションを学ぶ中で、彼が私の「心の友」であるとすぐに感じました(彼の名前の略称はJMWで、私はMJWでした)。ジョンは、当時私が働いていた高校で、以前にカウンセラー兼教師を務めてもいました。私は、彼が信頼に足る人物であると、また、私自身が見出せなかったものを私のなかに見出してくれるような人であると、感じました。お聞きになっていらっしゃる方の多くも同じように感じているに違いないと思います。
私は彼の知性、ユーモア、魅力、知識の深さや広さには到底及びませんが、それでも彼の言葉の一つ一つを貪欲に吸収しました。彼の言った言葉を一滴も逃さずに吸収する海綿のような存在だと、自分のことを思っていたほどです。ある意味では理想的な学生でしたが、言語や書籍・研究へのアクセス、執筆や哲学といった彼の能力には遠く及びませんでした。
彼は、私がニュージーランドの高校の実践のなかで試していたアイデアを書くように勧めてくれ、私たちはそれをUndercover Anti Bullying Teams(秘密いじめ対策隊)アプローチと呼んで、一緒にJournal of Systemic Therapiesに論文を執筆しました。これが、彼の死の前まで続く協働の出発点でした。
2012年、彼は私をサンディエゴで開かれたあるプレゼンテーションに招待してくれ、そこで社会構築主義の巨匠たちを紹介してくれました。当時、私たちは『Safe and Peaceful Schools(邦訳:いじめ・暴力に向き合う学校づくり)』という書籍を共同で執筆していて、私が帰国した後すぐに刊行されたのですが、この本は、私がニュージーランド・ヘラルド紙のニュージーランダー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀ニュージーランド人)候補にノミネートされるきっかけになりました。
ジョンは日本と中国の文化にも深い愛着を持っていました。綾城初穂は私たちの本を日本語に翻訳し、ジョンは私に、できる限り彼に私たちの仕事を共有するよう勧めました。初穂と私は親しい友人となり、初穂の翻訳は、日本のナラティブセラピーのコミュニティのより広い層にジョンを紹介する役割を果たしました。
ジョンはこの本のアイデアを大学での講義や世界中のワークショップで学生たちに教え、本を読んだり活用したりした人たちから注目を集めました。多くの点で、これは理想的なコラボレーションだったと思います。私は自分の仕事のストーリーを書いて、彼は私が何をしているのかを私に説明していたわけですから!今でも、彼が私のストーリーについて書いたものを読むたびに、珠玉の知恵(pearls of wisdom)と得難い洞察を発見し、驚きのあまり首を振らざるを得ません。
2021年、ジョンがサンバーナーディーノの自宅で転倒した際、彼はグロ・エマーストン・ルンド(Gro Emmertsen Lund)がフェロー諸島で開催するカンファレンスで基調講演を行う予定でした。ジョンは光栄にも私に代役を務めさせてくれました。デンマークの人々やカンファレンスの参加者に私たちの仕事をプレゼンテーションしている時、私は自分が全く無名の者であると感じましたが、彼が一緒にいてくれているようにも感じました。ジョンの寛大な精神をさえぎるものはありませんでした。

こうしたストーリーをお話ししたのは、ジョンの無私と謙虚さを明らかにするためです。彼は、良いアイデアとは自由に飛び回る鳥のように誰にも所有されないものだ、と考えていました。
サンバーナーディーノで彼と過ごした時、私は初めての孫に恵まれていました。祖父と孫の関係は何ものにも例えがたいと彼に言うと、彼もそういう日が来るのを待ちきれないと言っていました。自宅で転倒してから、ジョンはニュージーランドに戻り、息子のベンも家族と一緒にジョンの家のそばに移りました。彼はその家を非常に愛していましたが、やがて健康状態が悪化し、より高度な介護が必要になりました。それでも彼は自分の健康について不満を漏らしたことは一度もなく、おなじみのストイックさでそれに立ち向かい、家族と数人の友人が彼の世界の中心になっていきました。
彼はこどもたちのことを、そしてこどもたちのこどもたちのことを、とても褒めていました。ジョンのところを訪問するたび、彼は孫たちの活躍を話したり、孫たちが書いてくれた手紙やアート作品を喜んで見せてくれました。愛の涙もいつも流れていました。

ジョンがその家にいた頃、デヴィッド・デンボロウとシェリル・ホワイト、そしてダリッチ・センターのチームが、ラグビーの試合をモチーフに、観客の歓声や拍手まで再現した、素晴らしいトリビュートを企画しました。ジョンから影響を受けた世界中の人々が語る彼の思い出や称賛の言葉を、彼の家を訪れたみんなで一緒に聴きました。そこではジョンについて、そしてジョンが自分にとってどのような存在だったのかについて、彼の友人や同僚が一人ずつ話していました。ジョンは、自分の知っている人たちを目にして、そして、その人たちが語る言葉を聞いて、泣いていました。私にとっても、私の友人がいかに多くの人々にとって大切な存在であったかを聞く機会となりました。
トリビュート企画の最後には、息子のベンと孫たちが家を訪れ、拍手喝采が鳴り響く中、(孫の)アレクサが「みんなにとってのチャンピオン(Champion to Many)」というタイトルのトロフィーを彼に贈呈しました。
ジョンは、ウィンスレイド & モンクというダイナミックで革新的なデュオの片割れでもありました。彼が生み出した仕事や論文や書籍といった膨大な業績の解説については他の人に任せたいと思いますが、ジョンとジェラルド・モンクは圧倒的なコンビであり、彼らが書いた書籍や論文は、ナラティヴ・メディエーション、多文化カウンセリング、スクールカウンセリング、その他の多くのトピックにわたります。
ボブ・ディランが自身のヒーローであるウディ・ガスリーを訪れた時のように、私は時々ウクレレと歌の本を持って彼のところに行き、こどもの頃の馬鹿げた歌、親世代の古い歌、フォークソング、そしてプロテストソングを一緒に歌いました。彼はすべての歌詞を知っていました。
彼のお気に入りの一つは、レナード・コーエンの「アンセム(Anthem)」という曲です。歌詞には、「ひび割れがある、すべてのものにひび割れが。だからこそ、光が入り込んでくる。(there is a crack, a crack in everything. That’s how the light gets in)」という一節があります。ジョンは不完全なことを喜んで受け入れ、誤りや見当違いなことに美しさを見出しました。多様性と差異に重きを置いてそれを言祝ぎ、何気ないものや壊れたものに希望や光、美しさを見出すことができました。歌を歌った後は、ミルクティーを飲んで、カスタードスクエアを食べたものです。
ジョンは人生の儚さを自覚していましたが、家族や私との関係をそれに邪魔させたりはしませんでした。彼は死に抗い、自分を支えてくれる本や家族、音楽、アート、友人たちに気持ちを注いで、死を脇に追いやりました。ジョンは生きることに焦点を当てていました。身体の危機を乗り越えるたび、彼は微笑んで、安堵の息をつき、間一髪だったねと私に言ってくれました。

ジョンが重度の肺感染症で入院した後、その病院を私が訪ねたときのことですが、彼は私が来たことに気づくと、ベッドに横たわったまま片目を開け、精一杯の笑顔で、「まだ立っているよ!」と言いました。私は彼の頭を抱きしめて、吹き出して笑い、それからすぐ涙でいっぱいになりました。
ジョンはニュージーランドカウンセラー協会(NZAC)の発展に多大な貢献をし、2002年にキャロル・ホワイト、アイリーン・パトンらと共に、倫理規程を作り上げました。これは現在でも残っており、この文書が時代を超える価値のあることを証明しています。3年前には、彼は協会とニュージーランドのカウンセリングへの生涯にわたる貢献を認められ、NZACの終身会員に選出されました。

この文章を書くたびに思い出が溢れてきますが、ジョンとロレイン・ヘツキが記した深い示唆に富む本『The Crafting of Grief(邦訳:手作りの悲嘆)』のいくつかアイデアとともに、終わりにしたいと思います。
パーキンソン病という亡霊はジョンにずっとつきまとってきましたが、そのトゲに対して、彼は人生を肯定することで抗いました。こうした人生の過ごし方を通して、彼は私に、当たり前のものとして気づかずに受け入れてしまうストーリーやイメージ——これは人が人生に与える意味を制限します——を疑問視することを教えてくれました。
ジョンの生涯最後の年、私が彼に詩を読んだり、彼が本に記した文章を読みあげたりすると、彼は目をキラキラとさせ、まるで私が彼に読もうと選んだ言葉が、私自身にとっても意味があることを感じ取っているかのように微笑みました。彼は、人生のドラマはスナップショットではなく、映画のようなものだと書いています。違った仕方で接ぎ合わせることができるものであって、過去から始まって、今を通り、未来へとうつっていくものなのです。
ジョンの驚くべき生涯を象徴するwhatakauki(マオリの格言)を、つまりは珠玉の知恵(pearls of wisdom)を、皆さんに贈ります。

E hara taku toa
I te toa takitahi
he toa takitini

「私の力は個人としてのものではなく、集団としてのものである」と訳せます。
ご清聴ありがとうございました。

マイク・ウィリアムズ(綾城初穂訳)

ジョン・ウィンズレイドが手がけた書籍のリストが、NZのカウンセラー協会から回ってきましたので、掲載します。

  • 1997 Co-editor with Gerald Monk, Kathie Crocket and David Epston, and co-author: Narrative therapy in practice: The archaeology of hope.
  • 2000 with Gerald Monk: Narrative mediation: A new approach to conflict resolution
  • 2004 with Lorraine Hedtke: Remembering lives: Conversations with the dying and the bereaved
  • 2007 with Gerald Monk: Narrative counseling in schools: Powerful and brief.
  • 2007 with Gerald Monk and Stacey Sinclair: New horizons in multicultural counseling
  • 2008 with Gerald Monk: Practicing narrative mediation: Loosening the grip of conflict
  • 2011 with Michael Williams: Safe and peaceful schools: Addressing conflict and eliminating violence
  • 2012 with Gerald Monk: When stories clash: Addressing conflict with narrative mediation
  • 2016 with Maria Kecskemeti: Better classroom relationships
  • 2016 with Lorraine Hedtke: The crafting of grief: Constructing aesthetic responses to loss
  • 2019 with Gerald Monk and Stacey Sinclair: Intercultural counseling: Bridging the us and them divide