えぬぱっくの本棚に参加して(5冊目)

えぬぱっくの本棚に参加して(3冊目)
2025-01-15
えぬぱっくの本棚に参加して(3冊目)
2025-01-15

えぬぱっくの本棚(5冊目)は、論文『ナラティヴ、ポスト構造主義、社会正義』(Narrative, Poststructuralism, and Social Justice: Current Practices in Narrative Therapy)』をめぐって、荒井康行さんに語ってもらいました。この会に参加しての感想をいただいていますので、共有いたします。

日時:2025年1月11日(土)19:30~22:00
開催形式:オンライン(ZOOM)
今回のプレゼンター:荒井康行さん

■ 今回の書籍・文献

Combs, G., & Freedman, J. (2012). Narrative, Poststructuralism, and Social Justice: Current Practices in Narrative Therapy. The Counseling Psychologist, 40(7), 1033-1060.

1.今回のえぬぱっくの本棚に参加しての感想、考えたこと、これから取り組んで見ようと思ったことなどを教えてください。
一回では理解しきれない内容だったので、繰り返し録画を聴きながら少しずつ理解していく楽しみを得た2時間半でした。
今回「社会正義」という語が、どのような範囲やそれを考えるための私自身の立ち位置について検討する必要性を感じた。
あらやすさん、NPACCの皆様、ありがとうございました。
あらやすさんの講義と、ブレイクアウトルームでのディスカッションから、社会正義の輪郭を少し理解できたように思います。
正義仕立ての権力に対して、漫才のつっこみのように(できれば道化のようなユーモアも兼ね備えながら)程よく突っこみを入れること。固定されるのではなく流動しながら、権力を脱構築していくこと。「本当にそうなの?それでいいの?」と言っていくことの大切さを受け取りました。
個人的には「連帯」という言葉が響いています。対人支援をしていると、不幸を最小化したいと思うあまり、まずは自分に何ができるかを考えます。カウンセリングがうまく進まなかったり、経過が思わしくない場合には、自分の能力不足を思い、自分の価値観や志向性を再検討したくなりがちです。
今回のあらやすさんの話を聴き、これでは燃え尽きてしまうなぁ…と思うことができました。抱えがちなところが私にはあるのですが、もっとネットワークやチームで関わっていくことの重要性を感じる事ができました。論文も再度しっかり読みたいと思います。
「連帯」については、この後えぬぱっくの本棚でも取り上げるとのことでしたので、次回も楽しみに参加させてください。今日は本当にありがとうございました。
私は実務家なので、論文を読むことは小難しいことだと考えて敬遠してきました。しかし、今回の論文はナラティヴのエッセンスが凝縮されたものであり、それをご紹介いただいたことにも感謝ですし、あらやすさんがご自身の視点から大切な想いや重要なポイントをわかりやすい(けれど熱い)語りで聞かせていただいたことが、本当にありがたい豊かな時間でした。
あらやすさんは大学で教鞭をとっておられますが、実務もしてこられた方なので、語られること全てが私にとって身近に感じられます。
社会から受け取って振りかざす正義ではなく、一人ひとりを尊重し、連帯し、対話することの大切さを再考し、社会正義について考えることの出来る時間をいただけたことに、感謝しています。再考、最高な時間でした!
時間が短く感じました。もっとあらやすさんの語りを聴きたかったし、参加者同士で語り合いたかったです。
「正義」あるいは「社会正義」について考えさせられる内容でした。わたしはソーシャルワークや社会福祉、カウンセリングなどの現場に携わっていませんが、わたしにとって、特に目にする最近の世の中の動きから感じることと密接に関係する内容でした。あらやすさんが最初におっしゃった「社会正義とは正義仕立ての権力をみなで考え合うこと」なのだと思いました。「正義」と「正義仕立て」は似て非なるもの。「正義仕立て」ではなく、「正義」を実践するものとして「社会正義」があるのでしょうか。社会正義を実践するために「連帯」があるのでしょうか。「考え合う」ために、軸になるものとして、プレゼンの中でいくつか出てきた「徳」や「善」がその根本になるのでしょうか。ならば、軸を見つけたい。それは倫理学の分野でしょうか。「徳」や「善」とは何か、について考えてみることができたら。気をつけて、「正義仕立て」に取り込まれないように。
arayasuさんがなぜナラティヴに取り組むようになり、それが自分をどういうところに連れて行ったかというお話しが興味深かったです。また、社会学や哲学の議論を踏まえながら、社会正義というテーマについて、ご自身の考えを整理されたところも興味深く、冒頭の「社会正義は、正義仕立の権力をみんなで考え合うこと」という定義がお話しを聴いて、グループでの対話を通じて、最後に腑に落ち、とても面白かったです。
せっかくなので、論文の議論をもうちょっと紹介していただければ、このテーマについてより理解が深まったのではないかと思いました。(でも、論文を読んでみようというモチベーションは高まりました)
私たち実践家が共有している目的について、たくさんの言葉をもらったように感じています。目の前の相手との対話、自分の現場でのささやかな言説の構築といった私たちの日々の取り組みは、広く人文系の研究や臨床が共有しているような、暴力や差別を減らすという大きな目的のもとにあり、この大きな意義の一部に他ならないんだなと思いました。私の遺伝医療や医学教育という現場でも、この大きな意義を共有する仲間との連携が必要だと感じ、今後、臨床や研究活動を通じて、それに取り組んでいきたいと思いました。
「正義仕立ての」という言葉が自分にとってしっくりきて、そして、すごく納得しています。
もしも「正義」が洋服だったら、似合うとかサイズにかかわらず着ることを選ぶよう仕向けられる方向の力が常にあるということは、みなが知っておいたほうがいい、言葉にできたほうがいいよねってやっぱりそうだよねって考えさせられました。
私たちが、正義を心地よく着られるよう、素材をストレッチにするとかの選択肢を主張できるのが連帯なんだなと理解。
正義仕立てを着るために生きていくわけでもないのであって、それは私じゃなくてもいい、だれだって構わないとなれば、その正義服は、もっていてもいいけど着たい時だけでいいかな。そんな声もありだよねって思いました。
また1人では擦り切れてしまうから、連帯していくことは心強く思いました。ナラティヴ•セラピーとの関わり方の一つとして持っていたいと思っています。
初めて聞く学者名や言葉も多く、自分には難解過ぎてどれくらい理解できるだろうという受講前の不安は概ねその通りでしたが、「本棚」にある本として手に取れたことに安堵しています。そのような感覚を持てたのは、プレゼンターの荒井さんの語りがトツトツとしていて言葉が耳に残ったこともありますが、荒井さんの実践から伝えてくれた言葉の数々が嘘がなく生きている感じがし、それを紹介してくれたことがありがたかった。また、荒井さんの自然体に生きている感じが伝わってきて、ナラティヴ実践者の姿を見せてもらった時間になりました。「自分を置き去りにせず、みんなで一緒に考え、意識しながら活用する」・・・これに取り組んでみたいと思います。
社会正義や正義と聞くと、いったんは、なにかに丸め込まれるような、正しくあらねばならないということころに追い込まれる感じをもってしまいます。少なくともナラティヴを知る前のわたしはそうでした。どこかで、ファイティングポーズを取るようなところも意識してしまいます。今回、あらやすさんは、その辺のところを、ナラティヴの文脈等から、わかりやすく話してくれたように思っています。ありがたいです。特に「ボケとツッコミ」や「王様と道化」のメタファーは、イメージが出来ました。こういう、「社会正義」であれば、挑戦できそうな気がしています。 
ナラティブの哲学的背景である社会構成主義と、ロールズの「正義論」を接続しようとする試みは大変い興味深かったです。今まで社会正義とカウンセリングを論じたものでなぜかロールズに触れたものも不思議となかったように思います。
あらやすさんのアプローチはとても新鮮であり、またあらやすさんの暖かな語りから、想いが言葉としてして、身体に運ばれてくるように感じました。
ただ「無知のベール」などロールズの初歩的な部分をもう少し説明していただけても良かったかなと感じた部分はあります。

ちなみに、アマルティア・センについてスライドで短く触れていただいていました。
追加で申し上げれば、ロールズの正義論は、異なる価値観が多様に乱立する社会において、万人の公正や平等を導くための、苦心の末に生み出されたユニークな「哲学的方法」であることは間違いないと思います。しかし、センがロールズを批判したのは、ロールズの考える「財」や「効用」の限界を捉え、それでは基本的な人のwell-beingを評価することができないという洞察から出ています。私自身むしろセンの「ケイパビリティ・アプローチ」(「潜在能力」「機能の集合」)の方に、ロールズ以上にあらゆる周縁化されかねない存在への眼差しがあり、「正義」の定義に説得性を感じます。それが評価されてノーベル経済学賞に繋がっていることも事実ではないかと思います。
私自身は、今回のえぬぱっくへの参加をきっかけに、社会正義の議論、ケイパビリティ・アプローチ、ナラティブ・アプローチとの接続の可能性について考えたくなりました。
貴重な機会をいただき心から感謝しています。
これまで自分が接してきたところとは、少し別なところから「社会正義」のお話しを伺えてとても勉強になりました。特に「正義と社会正義」やサンデル~ロールズ~マッキンタイアのお話しが興味深かったです。「社会正義」という言葉は、「正義」という文字が含まれているからでしょうか、勉強会などの場で扱おうとするとどこかハードルの高さようなものがありました。しかしあらやすさんのご提案のように「正義仕立ての権力をみなで考え合ってみない?」ということであれば、「正義のように仕立てられたり、見えたり、見ていた李する権力」のを遊び心をきかせながら、仲間と一緒に並べることがちょっとできそうな可能性を感じました。どうもありがとうございました。
何度も聞き直したいと思うお話をありがとうございました。
実践において、姿勢としてはナラティヴに流れている哲学に沿って…と思いつつ、その場や振り返りのタイミングでは、どこまでを視野に入れて自分の立ち位置を決めるのか、模索しながらいます。そのような場面で社会正義についての歴史の中での人物やその人の言説、流れをお聞きできたこと、また、ソーシャルワーカーの倫理規定についてお聞きできたことも私に取ってはありがたいことでした。そして、「社会正義とは…みなで考え合うこと」というところでは、近づきにくさや、かえって力をふりかざしてしまいそうになる危惧を、みなで考え合えるところに自分を置いておくのだ、という自分への声かけをさせてくれる道に気づかせていただいていたように思います。
また、連帯についてお話しいただいたところでは、NZのジェニーのフーコーのチェーンの話を以前の参加者の方の描かれた模造紙と共に思い出していました。そして、今、現場で周りの人を繋いだり、自分が気にしていることを言葉で他の人に伝えたりしていることは、この連帯に繋がる動きなのだと思え、うまくいかない部分についての徒労感が軽減した気がしています。
また、初回NZからのこの6年半の歩みでの自身のトランスポートを感じた時間にもなりました。論文は早いうちに目を通したいと思っています。ありがとうございました。
心理療法の世界で社会正義について話を聞いたり語ることができ、大変嬉しい時間でした。もう少し論文の方の話も聞きたかったです。