リスニング道場〜豊かな会話をめざす~(平日夜コース)(2025年)
2024-12-29えぬぱっくの本棚に参加して(5冊目)
2025-01-15えぬぱっくの本棚(3冊目)は、論文『逃走線をたどる:ジル・ドゥルーズの仕事が持つナラティヴ実践に与える意味(Tracing Lines of Flight: Implications of the Work of Gilles Deleuze for Narrative Practice)』をめぐって、佐藤衛さんに語ってもらいました。この会に参加しての感想をいただいていますので、共有いたします。
日時:2024年11月25日(月)19:30~22:00
開催形式:オンライン(zoom)
今回のプレゼンター:佐藤衛さん
■ 今回の書籍・文献
『逃走線をたどる:ジル・ドゥルーズの仕事が持つナラティヴ実践に与える意味(Tracing Lines of Flight: Implications of the Work of Gilles Deleuze for Narrative Practice)』
WINSLADE, J. (2009), Tracing Lines of Flight: Implications of the Work of Gilles Deleuze for Narrative Practice. Family Process, 48: 332-346. https://doi.org/10.1111/j.1545-5300.2009.01286.x
今回の終了後、佐藤衛さんとBecomingについて少しやりとりしました。そのやりとりも参考のために載せておきます。
まもさん: ドゥルーズの基本概念のBecomingとナラティヴについて、こうさんにきいてみようと思っていたことは忘れていました。
ホワイトの「地図」の索引を見ると、becomingという言葉は索引には入っていませんでした。
ということは、ナラティヴで生成 becomingという言葉を使い始めたのは、ホワイトがなくなった後かな?と思ったんですが、どうなんでしょうか?
KOU: 私が最初にBecomingという言葉に出合ったのは、John Winsladeからなので、Whiteが口頭で話していたことを、Johnあたりが引き継いでくれたのかもしれませんね。
でも、Becomingという概念は、マイケルの取り組みにフィットする気がします。
まもさん:なるほど、becomingは潜-在していたのですね。
KOU: 哲学的な概念があって実践方法が生まれるという側面があるかもしれませんが、実践を哲学的な概念で説明できることによって、その実践がより生きていくるという側面もある気がしています。
この意味で、Becomingは、ナラティヴ実践を作ったというよりも、ナラティヴ実践をよりしっかりと説明できるという気がしています。
まもさん: 私のなんとなくのイメージでは、ホワイトは、再著述を通じて、新しいアイデンティティのストーリーを定着するというニュアンスがあって、常に違う人になり続けるという感じはあまりしていませんでした。
ただ、実際にやっていることは、becomingとして表現するのにふさわしいものであったというのもわかる気がします。
KOU:「再著述を通じて、新しいアイデンティティのストーリーを定着するというニュアンス」はあります。そのように理解されてきたと思います。
でも、Becomingという概念を聴くと、「常に違う人になり続ける」と理解した方がいいと思えますよね。
まもさん: なるほど、そのあたりの言語化をおこなったというのが、ウィンズレイドのドゥルーズ解釈の論文の功績なのかもしれませんね。
1.今回のえぬぱっくの本棚に参加しての感想、考えたこと、これから取り組んで見ようと思ったことなどを教えてください。 |
個人的にはドゥルーズの視線を通して、改めてフーコーを深める原動力になりました。 まもさんには哲学や文化人類学など幅広い分野でナラティヴと繋がる文献を『シリーズ化』して今回の様な「それぞれが門戸を開ける…ドアをノックする勇気」を、それぞれが持ち得ているんだということを気づかせてくれる時空を提供してくれたら嬉しく思います。…シリーズ化… 〜余韻中〜 |
ナラティヴの実践に影響を与えたフーコーやドゥルーズの言葉をどのように理解すればよいのか、少しは近づけたような感じがしています。フーコーの権力論についてはこれまでも聞いたことがありましたが、改めて「権力」は地位に関連して保有されるものではなく、常に「権力関係」の中で「行動する行動」として生ずるということが印象に残りました。その上て「逃走線」は地層の切れ目から漏れ出るようなものという説明があり、権力の隙間から流れ出るというイメージが持てました。また生成と差異のところでは「あらかじめ存在するのではなく、作られるものである」ドゥルーズは「差異」だけが存在すると表現されてるところなどから、実践ではその差異から生成していくのだからこそ、協働的に対話していくことが必要なのだと思いながら話を聞かせていただきました。ドゥルーズの過去と現在の時間的な考え方にも心惹かれました。権力の隙間から漏れでる逃走線を見つけることに協働的に取り組むという視点が新たに加わったことで、実践をこのような視点でみられる日が来るのだろうか、来るといいな、と密かな楽しみが出来たような感覚でいます。 |
ホワイトが「ドゥルーズを読め」と言っていたので、参加することにしました。これまでドゥルーズの考えに触れたことはありませんでしたが、論文の翻訳やプレゼン資料の準備がとても丁寧にされていて、ドゥルーズの森への入り口となりました。この機会にYou Tubeで動画を20本ほど見てドゥルーズの考えに親しむことができました。ここから、ドゥルーズの森の深部への一人旅に出かけたいという気持ちになりました。 |
これまでマイケル・ホワイトの文献を追うのに精いっぱいでしたが、ドゥルーズという名前知っているい人に触れて、世界が広がったような気持ちになりました。フーコーとほぼ同時代にこれだけのことを考えている人がもう一人いた、というのも印象的でしたし、ともすればモダニズムの影響に縛られている自分の姿を改めてみるような気がしました。自分もマイケルだけでなく、少しずつ世界を広げていきたいと思いました。また、まもさんらしををあちこちに見ることができ、とても楽しかったです。 |
難しい論文の言葉を丁寧に紐解いてくれたこと。そして、マモさんの中を通して響き合った言葉と共に伝えてくださったことに感謝しています。特に、難しくてとっつきにくい哲学のお話も「読むように読めばいい」のだ、と最初に伝えてくださったのがとても有難かったです。また地図や地理というメタファーと線を引く人の概念を伝えて頂いたことで、ナラティヴをイメージする選択肢が広がっていったのもありがたかったです。 今後は参考資料としてあげてくださっている部分も含めて引き続き読み込んでいきたいと思います。 |
まもさん、プレゼンターありがとうございました。まず論文資料の注釈を含め、とても丁寧にご準備して下さったことが伝わってきて、とても有難く思いました。フーコーとドゥルーズについて分かりやすくお話して下さり、ナラティヴ・セラピー実践とのつながりへの理解が深まりました。「逃走線」とは、地層のように堆積した間から染み出る地下水のように、どこかに漏れ出る可能性を探るようなイメージを頂きました。日々の実践の中で、どこかに抜け道はないだろうかと右往左往している私にとって、「権力の線を探す行為である」という名前を付けて頂いたように思います。また、引用して下さったフーコーの語りがとても格好よくて!フーコーがインタビューに答えているような本を手に取ってみたいと思いました。本当にありがとうございました。次回があれば、ぜひまた参加したいです。 |
ただの感想を書きます。連想ゲームのような感想です。わたしはドゥルーズのことは知りません。心理学の専門的な素養もなく、カウンセリングの現場も持っていません。その中で、「逃走線」という言葉から、ドゥルーズと同じ頃、たしか1960年代終わり頃に芥川賞をとった庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を思い出しました。時代は東大紛争時で、東大受験生の主人公(薫)の兄たちがノートの中で「馬鹿馬鹿しさの真っ只中で犬死にしない方法」というのを議論していて、その中の最後に「逃げて逃げて逃げまくる方法」がある、という描写があったのを思い出したのです。小説の中では、逃げて逃げて逃げまくって、逃げきれたら、結局その問題は大したことはないのだと、言っていたように思います。ただ、逃げきれなかったらどうするのかについては、答えが書いてなかったように思いました。庄司薫とドゥルーズは全く関係ないと思いますが、同じような時代だったのかなと勝手に思いました。今回、自分を50年くらい前に一気に引き戻してくれて、たいへん懐かしい思いがしました。ありがとうございました。 |
実践で時間軸をどのように捉えているか。にフォーカスした質問を試してみようと思った。過去のストーリーの語りを「今の自分からそのストーリーをどう感じているか?」と聞くことで「逃走線」が見つかるのか試したい。 |
ロレイン・ヘツキとジョン・ウィンズレイドの『手作りの悲嘆』を読んだ時、ドゥルーズが時間についてクロノスとアイオーンの二つを説明していること、グリーフケアにおいてはアイオーンの時間感覚で考えることなどを学んだが、十分に消化できていなかった。その後、小森さん・安達さんらが著した『ナラティヴと情動』を読んだ時にマイケル・ホワイトの遺言は「ドゥルーズを読め」だったということが書いてあり、ドゥルーズは読まなければならないと思いながら、宿題のままになっていた。今回まもさんにウィンズレイドの論文とその他の膨大な読書の結果から解説していただき、点と点の間に興味を持つということには大いに同意し、地層には隙間があり、そこから漏れ出でるというイメージもナラティヴ的だと思った。個人的に何年もブームになっている「副詞的」な感じである。点と点で区切ると名詞的になってしまい、たとえば診断名や職種名のような動かない描写になってしまうが、線でとらえると動きが感じられる。何者かになってしまわない自由さがある。(ちなみに動詞は、「〇〇を治療する」など、対象に直に働きかけるのであれば、ナラティヴ的ではないと考えている。)それでも「逃走線」はいまだによくわからない。逃走がflightなのでトランスポートのようにとらえ、動きと可能性が広がっているイメージ(権力線のすぐ隣に逃走線があるような、あえて表面的に言うとバーチャルなパラレルワールドがあり、会話をすることによってリアルワールドになっていく感じ?)だけを受け取っている。私も企業の中で活動してきて、人事や管理職と何回も話をしながら、あれ、今度は違う展開だ(違う方向、違う線が伸びてきた)と思うこともあるし、「間」で四苦八苦しながら動いてきたなとも思った。重い腰を上げて、もう少しドゥルーズに取り組むべきかと、まもさんの書籍リストを見ながらため息をついている。 |
対話って、漏れ出てくる自分にとっての逃走線を見つけて、試してみようかなと思わせてくれるものなのかもしれないと思ったりしました。 |