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2020-05-17リスニング実践トレーニングコース(平日昼開催コース)(第1期)
2020-06-04ナラティヴ実践協働研究センターでは、ジャーナル「えぬぱっく小誌」第1号を発行しました。
えぬぱっく小誌(Journal of Narrative Practice and Coresearch)は、ナラティヴ実践協働研究センターの機関誌で、発行は不定期となります。ナラティヴ・セラピーに関係する実践報告・小論・エッセイ・書評・翻訳などを掲載していきます。
【内容】
Issue: No.1 (2020年5月)
「耳の調律」特集
・ 「えぬぱっく小誌」刊行にあたって 横山克貴(臨床心理士)
・ 論文 ナラティヴ・セラピーの耳の調律マップ 国重浩一(臨床心理士)
・ エッセイ 耳の調律ワークショップに参加して 松本寛子(臨床心理士)
・ エッセイ 耳の調律~逐語記録から見えてきたもの~ 眞弓悦子(キャリア・コンサルタント)
・ エッセイ 「耳の調律」に出会って 齋藤友美子(キャリア・コンサルタント)
・ 論文翻訳 耳の調律:ナラティヴ・セラピーのリスニング ハイベル&ポランコ(著) 国重浩一・バーナード紫(訳)
【書籍情報】
発行者: ナラティヴ実践協働研究センター
発行日: 2020年5月
ファイル形式:PDF(A5サイズ)
印刷する場合には、A4一枚に2ページを割り付けて印刷すると読みやすいように調整しています。
A5サイズですので、スマホのような小さな画面でも読むことができます。
ファイル形式:EPUB 2.0.1(リフロー型(再流動型))
どちらのファイル形式もダウンロードすることができます。
頁数:95ページ
購入先: https://npacc.booth.pm/items/2084037
「えぬぱっく小誌」刊行にあたって
横山克貴
臨床心理士
ナラティヴ実践協働研究センター センター長
この度は、「えぬぱっく小誌 Journal of Narrative Practice and Coresearch」を手に取っていただき、誠にありがとうございます。私たち、ナラティヴ実践協働研究センター(NPACC:えぬぱっく)は、ナラティヴ・セラピーの実践や研究、トレーニング等を行うために、2019年にクラウドファンディングの支援を受けて設立されました。
現在、ナラティヴという言葉は様々なところで聞かれるようになり、またナラティヴ・アプローチ、ナラティヴ・セラピーという言葉が意味するところは少し複雑な様相を呈しています。例えば、かなり限定的な意味合いで特定のアプローチを指して「ナラティヴ」と呼称することもあれば、語りや物語という概念に言及したアプローチ一般を広く指して「ナラティヴ」と括る人もいます。特に近年は、語りや対話といったものが改めて重要視される中で、ナラティヴという言葉が使われることが増えてきている印象です。
ここで、NPACCが、そして本誌が「ナラティヴ・セラピー」と呼び、取り組んでいるのはどのようなものか、最初に書いておく必要があると思います。それは、歴史的に言えば、オーストラリア人のマイケル・ホワイトとニュージーランド人のディヴィッド・エプストンが形作った治療的枠組みのことと言えるでしょう。彼らは、フーコーやデリダ、マイアホッフ、ブルーナーをはじめとする、多くの思想家、哲学者、文化人類学者、そうしたポスト構造主義や社会構成主義と呼ばれる潮流の思想や哲学と対話しながら、より良い実践を目指して、「ナラティヴ・セラピー」という一つの体系的なアプローチを形作りました。
このアプローチは、個人主義や自然科学を前提とする伝統的な知や実践の在り方を問い直し、「人が問題ではない、問題が問題である」という倫理的な姿勢のもとに発展したもので、目の前にいる一人一人との協働的な実践に取り組むための、新たな可能性を多く伝えてくれています。ただ、日本では、重要な書籍の邦訳も多く出ているものの、その実践にしっかりと取り組む人や組織はほとんど見られませんでした。私たちがNPACCを立ち上げようとしたのは、日本でも、このアプローチが安定して取り組まれ、実践や知が積み重ねられていくために、しっかりとしたベース(拠点)が必要だと思ったためでした。
NPACCは設立にあたって、大切にしたい6つの信条を掲げました。その一つに、「協働への可能性を開き、持ちうる知を公共のものにしていく」というものがあります。この文言に、NPACCの活動を通して得た「知」を、自分達や一部の関係者が独占するのではなく、誰もがアクセスできる公共のリソースにしていきたいという思いを託しました。そして、組織として動き始めてからほぼ1年が経ち、ジャーナルの発行という形で、この信条の意味するところに、より実際的に取り組めるのをとても嬉しく思っています。
では、ナラティヴ・セラピーに関する知といった時、そこにはどんなものが含まれるでしょうか。一つには、マイケル・ホワイトをはじめとした先人達が積み上げてきた知があります。ナラティヴ・セラピーの骨子を支えるそれらは、非常に重要な知でしょう。そして、それに加えて、世界中で今も進行形で積み上げられている知があることを視野に入れておくことも、同様に大切だと思います。でなければ、私たちは、ナラティヴ・セラピーが持つ、大切な可能性の半分を見失ってしまうことになります。
2016年に『いじめ・暴力に向き合う学校づくり』(新曜社)という書籍が、翻訳、出版されました。この本は、学校現場で生じる対立やいじめという問題にあって、子どもや学校を意味のある形で支援するには何ができるかを、ナラティヴのアイディアに基づいて発展させていった本です。昨年、翻訳された『手作りの悲嘆』(北大路書房)は、死別、喪失という事態に人々に生じる痛みをどう支援できるのか、ナラティヴ・セラピーのアイディアとともに進むことで、今までになかった大切な支援の在り方を描いています。また、NPACCで去年に邦訳を出した『ふたつの島とボート』(農文協プロダクション)は、ドナルド・マクミナミンという実践家が、自分の経験に基づくメタファーによって、ナラティヴのアイディアをより豊かに、新しい仕方で描き出した本でした。今回本誌でとり上げている「耳の調律」も、ナラティヴの思想を発展させた、カウンセリングのトレーニングに関する先進的な試みを取り扱ったものです。
ナラティヴ・セラピーの知は、先人たちによってすでに作り上げたものを基盤として、様々な領域に分け入ってより豊かな実践を展開させたり、個々の実践家の経験や、最新の思想や哲学、研究との対話の中でアイディアをさらに発展させ、今もなお新たな知を生成し続けています。そのように考えると、この流れをしっかりとキャッチし続けることが大事なのは言うまでもありません。しかし、それ以上に、受け身的な活動ではなく、私たち自身も、やはりこの知にまつわる活動に参加していくことが大切なのではないでしょうか。それは、何も大それたことをやるという意味ではなく、私たちのできる、小さいところから始めることができるのだということです。むしろ、そこにちゃんと目を向けることこそがナラティヴ・セラピーの思想を反映していることになるのではないでしょうか。さもなければ形にする機会が失われてしまいかねない、ローカルな小さいものにこそ、ちゃんと目を向け、耳を傾けていくことが大事だと思っています。
やりたいこと、できそうなことはたくさんあります。NPACCを含め、日本で少しずつ取り組みが広まりつつある実践の報告を形にすることは意味があると思います。また、そうした実践をより豊かにする、様々な論考や研究にも大切な意味がありそうです。NPACCでは、ナラティヴ・セラピーのトレーニングやワークショップも行っていますから、そうした学び方や伝え方に関する知見、ナラティヴのカウンセリングというものをどうやって習熟したり発展させていくことができるのかという知を公開していくことも意味があるでしょう。あるいは、まだ日本に翻訳されていないナラティヴの論文や論考を紹介したり、翻訳、議論することも大切です。もちろんそれは、古典的なものから、最新のものまでを含みます。あまりこだわらずに、様々な知を、形にしたり、流通させたり、議論したりする、そんな大切な活動に取り組めるプラットホームに、この「えぬぱっく小誌」がなっていったら、そんな思いを抱いています。
このあたりで筆をおいても十分なのですが、もう一つだけ。NPACCが「えぬぱっく小誌」というジャーナルを刊行するという時、ナラティヴ実践協働研究センターという、つまり市井の組織が自分達の積み上げた知の発信に取り組むという、そのことの意義があることを書いておきたいと思います。一つには、カウンセリングのセンターという、非常に実践に近いところで知を積み上げることの意義があります。特に、臨床、カウンセリングの領域において、実践と研究が足並みをそろえられる場所で知を積み上げ、議論に開かれた形でそれを社会に公開していくことは、やはり大切な活動だと思います。
そしてもう一つ、大学や学会というフォーマルなアカデミズムの場所ではない、いわゆる「在野」から積極的に知の発信を行うことも、何か大切な意味があるのではないでしょうか。知の発信といった時、一番一般的であり、社会的に認められている方法は、既にある、学会を含むアカデミズムの場での発表や論文投稿という形でしょう。もちろん、NPACCとしても、そのような活動もしていきたいし、自分達の実践や知を多様な文脈のなかに出して議論していく姿勢を大切にしていきたいと思います。一方で、そのような、主流でフォーマルとされている経路だけに閉じてしまっていいのだろうかという思いもあります。ナラティヴ・セラピーが多大な影響を受けているフーコーは、その歴史的な分析において知と権力の関係を明らかにました。マイケル・ホワイトは、主流でフォーマルとされる知の認証の仕組みが支配的になることで、いかに私たちのローカルな知の在り方が周縁化されてしまうかという批判的なまなざしを私たちに残してくれました。知の生成と認証の場がフォーマルな位置に集約し、在野、市井の人はその知を受け取るという立ち位置しか持つことができなくなるとしたら、その状況はやはり危ういものを含むのだと思います。もちろん、意味のある確からしい知を積み上げるための、厳密な手続きや基準があることの重要さはあるでしょう。また、フォーマルな場と言っても一枚岩ではなく、様々な団体の緊張関係がもたらす多様性もすでに一定程度あるでしょう。ただ、その上でもなお、知の生成、蓄積、議論、発展のためには、多様な経路が保たれることが重要であり、特に在野、市井の組織や人々が積み上げる知を、しっかりと発信していける場は重要ではないかと思うのです。私としては、そんな意識も、時折立ち戻る場所として持ちながら、本誌に取り組んでいきたいと思います。
さて、最後は少し、書きながら盛り上がって風呂敷を広げてしまった気がしますが、ともかくも、小さな実践報告や論考から、英語論文の翻訳や紹介といったものまで、その時その時に大切だと思う様々な知を発信していきたいと思います。こういった冊子にしばしばつきまとう、外的な基準による厳密さや手続き化には走らず、軽やかさを持っていきたいと思います。代わりに、真摯さと内省的な姿勢、対話と多様性を意識して、「会話を続けよう」という形を携えていけたらいいのではないでしょうか。「えぬぱっく小誌」という、少しとぼけたような名前にしたのも、ぜひあまり堅苦しいもの、遠いものとせずに読んでもらいたい、願わくばいろんな人に参加してもらえたらという思いを込めました。どうぞ、これからの活動を楽しみにしつつ、まずは第1冊目となる本誌を楽しんでもらえたらと思います。